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伽耶遺跡の保存と整備

任那日本府の虛構性

任那日本府は、古代日本で編纂された、『日本書紀』にだけ記錄されてる內容です。元來は、古代韓日關係史における學術主題の一つで、取り扱われる問題です。が、現實的に、そのようには行きませんでした。日本の敎科書問題や、韓國と日本の政治的 懸案で、世論上の論爭となったことも多く、時にはこのような傾向が、學問的な硏究より先走ってた場合もありました。しかし、近年における韓日兩國の關係も好轉しているように、任那日本府の問題は、日本の漠然たる先入觀や、韓國の感情的反撥では解決されません。韓日兩國で任那日本府に關わる議論は、百年以上も進行してきました。韓日における任那日本府に對する硏究を、簡單に紹介批判して、過去の任那日本府說の虛構性を明らかにし、任那日本府の正體を糾明してみることにします。

日本の硏究

過去の日本では,古くて1400年前から,古代日本が4∼6世紀の200年間も,韓半島の漢江以南を,近代の植民地のごとく經營し,その統治の中心が任那日本府だったと主張してきました。しかし,戰前まで,猛威をふるっていた,このような解釋は,だいぶ變りました。1960∼1970年代における安保鬪爭の際に,この問題も再檢討され始めました。日本史の敎科書は以前としてますが,專門硏究者で過去のような主張を繰り返すもは,殆んどいなくなりました。相手は變りました。が,韓國學界では,未だに戰前の日本硏究を,批判の的としている傾向もあります。

一方,1970年代になると,北朝鮮の硏究による刺戟で,修整論がでてきました。伽耶の倭人說とも言われる硏究です。先史時代から,韓半島と日本列島との交流は,活潑でした。韓民族が日本列島へ移住したように,伽耶でも倭人が集團的に居住したといいます。よって,任那日本府は,伽耶の倭人が自ら建てた行政機關で,現代の日本領事館に似ってるものと捉えました。ただ,今の領事館は,日本政府の統制を受けるが,任那日本府は,倭王に屬したものではない,という立場を取りました。

他方,1970∼1980年代になると,任那日本府が統治や行政機關でもなく,倭から伽耶へ派遣された外交使節にすぎない,という硏究もでてきました。役所を意する,府という漢字は,8世紀の『日本書紀』が主張した,獨特な歷史觀にすぎないといいます。府は,古代日本語で,ミコトモチと訓まれました。645年以前のミコトモチは,機關や役所ではなく,使でした。近年の韓日兩國で,もっとも注目される解釋となっています。

北朝鮮の硏究

戰前の日本側の主張に對する,最初の反論は,北朝鮮から提起されました。1963年に,金錫亨は,日本學界の發想を,完全にひっくり返す,革命的な硏究を出しました。分國論と言います。先史時代以來に,三韓·三國の住民は,日本列島に移住し,各 の出身地のような分國を建てました。これらには,伽耶人が,現在の廣島と岡山の地に,建てた任那國もありました。なお,任那國の西には,百濟の分國が,東北には新羅の分國が形成され,東には倭の大和政權が位置してました。『日本書紀』にみられる,任那日本府の問題は,日本列島の任那國をめぐって,新羅·百濟の分國と,倭の大和政權が,爭奪戰を繰り廣げた歷史として,理解したものでした。任那日本府の問題を,韓半島の伽耶から切り離し,全く關係のない日本列島における歷史として,解釋したんです。つまり,その爭奪戰の最後に,倭の大和政權が,伽耶分國の任那國を統合し,そこに設置した統治機關が任那日本府だと主張しました。日本の學說をひっくり返し,古代韓國による日本列島への進出論を確立したものでした。この硏究は,解釋の與否は別にして,韓日兩國の硏究に,大きな刺戟を與えたことは事實です.

韓國の硏究

韓國による本格的な批判は,千寬宇が提示した百濟軍司令部說でした。『日本書紀』の批判的硏究を通じて,日本と記されている伽耶進出の主體を,百濟に直すと,話が良く通じる所が少なくない。よって,4世紀末に,日本が伽耶を占領したという記述も,百濟の伽耶進出として解釋できるとしました。つまり,6世紀中葉の任那日本府とは,任那百濟府であり,任那百濟府は,伽耶の干涉のために設置した,百濟軍司令部のようなものとして解しました。他にも,任那日本府を伽耶が倭との貿易のために設置したものと,解釋したものもありましたが,資料に卽しての硏究とは考えられません。最近には,韓國でも,任那日本府を外交使節とみる硏究も發表され,韓日兩國で,共通の見解が生まれる日も,さほど遠くないような氣がします。

從來硏究の批判

分國論は別にしても,任那日本府の問題が,韓南部の伽耶地域で起きた出來事は確かです。にもかかわらず,今までの硏究は,倭や百濟の利害だけが强調されるのみでした。この問題の當事者だった,伽耶の利害關係が,眞面目に考えられたことはありませんでした。'任那不在の任那日本府論'だけが,橫行してたわけでした。しかし,これらの硏究は,別に『日本書紀』の記述を小細工しなくても,いくらでも批判できるものです。 一つ,任那日本府の記述は,6世紀の歷史を記錄した,『日本書紀』欽明紀に限られています。が,戰前の日本の硏究や,韓國の百濟軍司令部說などは,任那日本府の成立を,4世紀の歷史を記錄した,『日本書紀』神功紀に見える,新羅や伽耶平定說話から求めました。4世紀に,伽耶を平定したはずの,倭または百濟が,200年も過ぎ,6世紀に統治や軍政のための機關を設けたとは考えられません。なお,『日本書紀』によると,任那日本府は,6世紀の50年しか存在しませんでした。政治または軍事的に伽耶を倂合したはずの,倭または百濟が,150年も過ぎた後,統治または軍政のための機關を設置したという,まことに滑稽な話になるのです。

二つ,任那日本府の記述には,倭または百濟が,伽耶で稅金を收めるとか,勞動力や軍士を動員したとか,政治的强制を行なった痕迹は,全くありません。伽耶王らと步調をあわせた外交活動に關するものが全てです。これらの記述から,倭の統治機關,または百濟軍司令部の存在は,想像もつかないことでしょう。三つ,任那 伽耶は新羅によって滅びました。しかし,新羅の伽耶倂合に對し,倭や百濟が,軍事を始めとする,いかなる行動を起こした痕跡は,全くありません。もしも,任那日本府が,倭の統治機關または百濟の軍司令部でしたら,このようなことはありえなかったでしょう。

四つ,伽耶の倭人說も同じです。伽耶に倭人が集團的に居住し,その自治行政機構が任那日本府でしたら,伽耶の倭人に對する統治行爲が記錄されたはずです。が,『日本書紀』にみえる任那日本府の活動は,外交に限られています。しかも,伽耶に倭人が集團的に居住した,文字記錄や考古學資料は,何一つもありません。もちろん,伽耶の古墳からは,倭の文物も確認されてます。が,その數はとても少なく,一基の古墳からすれば,數百の伽耶遺物のなかで,一つや二つに過ぎません。また,ごく僅かの倭系遺物は出土されても,その古墳は傳統的な伽耶古墳の形式を取っています。倭人集團の居住の痕迹ではありません。伽耶と倭の交流を通じて,伽耶にもたらされたものでしょう。倭人集團の居住が證明できないなら,伽耶の倭人說も成立しません。

五つ,北朝鮮の分國論は,任那を日本列島のどこかに比定した所が,致命的な弱點でした。もちろん,任那は,『日本書紀』に多く見られる表現です。が,それだからと言って,『日本書紀』が造作した用語ではありません。韓國や中國の史料でも,任那は伽耶を指してるものと,確認されます。中國の「括地志」は,伽耶諸國を總じて,任那と記錄しました。韓國の「廣開土王陵碑文」は,400年に高句麗が征伐した國として,任那加羅を記しました。任那加羅が,伽耶に間違いないのは,稀にも韓·中·日の學界の共通した見解です。『三國史記』は,新羅の有名な文章家の强首を,任那加良の出身と傳えます。强首は,忠州の出身でした。忠州は日本列島のどこかではありません。なお,金海となりの昌原鳳林寺の「眞鏡大師塔碑」では,新羅人の眞鏡大師が,任那王族の末裔だったと記しています。この任那は,金海の伽耶を指してます。結局,これらの任那は,韓南部の伽耶で,日本列島のどこかを指すものではないんです。もちろん,古代の日本列島に,伽耶系の分國が存在していた可能性はあります。しかし,任那日本府の問題が,伽耶で起きた歷史の反映であることは確かです。

任那日本府の正體

それでしたら,任那日本府の正體は何でありましょう? まず,その語意から始めます。任那日本府は,任那+日本+府の合成語です。任那は,伽耶の異稱です。日本という國號は,7世紀以後にならないと確認できません。

任那日本府が云 される,6世紀中葉まで,日本はありませんでした。8世紀における『日本書紀』の編纂段階で,倭が日本に書き換えられものに過ぎません。任那日本府を記す,『日本書紀』でさえ,日本と倭の表記が混用されています。府は,中國の漢代に,將軍が天子より軍事と行政權を委任され,その權限を行使するために設置した,幕府から始まりました。しかし,古代日本で幕府の制が行われた例はありません。官廳として府が,最初に確認されるのは,667年の筑紫都督府や,671年の筑紫太宰府でした。任那日本府が云 されるのは,これより150∼100年前のことであります。府という漢字は,元の正體を反映したものではありません。『日本書紀』の多くの筆寫本や註釋書は,府を'ミコトモチ'と訓んでいます。府は,ミコトモチを『日本書紀』の編纂者が,自らの解釋を加え,それに相應しい漢字で表記したものに過ぎません。府の實體は,ミコトモチでした。ミコトモチがどんなものだったかを追跡するのが,日本府の正體を把握する鍵となります。任那日本府の問題は,500年の前半のことですが,645年以前のミコトモチは,大和の倭王から,地方豪族に遣された,一回性の使でした。結局,500年前半の日本府=倭のミコトモチは,倭使であり,任那日本府とは,倭から伽耶に派遣された使でありました。

日本府=倭使ら

日本府に關わる人名は,印岐彌·許勢臣·的臣·吉備臣·河內直,そして阿賢移那斯と佐魯麻都が全てでした。利那斯と麻都は,『日本書紀』でも伽耶人と記錄され,印岐彌や許勢臣は,斷片だけが見られるのみです。よって,的臣·吉備臣·河內直の3人こそ,日本府すなわち倭使だったと言えます。しかも,『日本書紀』欽明15年(554)12月條は,安羅日本府を,安羅(慶南咸安)にいる倭臣らと記しています。日本府とは,倭の使またはその集團であることが,再び確認されます。また,欽明2年(541)や4年(543)條では,任那日本府と安羅日本府が,ともに安羅國に滯在してたことが確認されます。もしも,日本府が倭の統治機關または百濟軍司令部だったら,同じ時期に,同じ場所に,二つもあるわけに行きません。日本府とは,倭の統治機關なたは百濟軍司令部ではありません。任那日本府吉備臣とは,任那に遣された倭使の吉備臣で,安羅日本府河內直とは,安羅に遣された倭使の河內直でした。

伽耶諸國と日本府らの活動

實際に,倭使らは,どんな活動をしてたのか? 日本府=倭使らの活動には,次のような主な特徵が見られます。一つ,541年に任那日本府である吉備臣は,安羅國·加羅國(慶北高靈)などが遣した使臣らとともに,百濟との外交交涉に參加し,安羅日本府である河內直は,新羅との外交交涉に參加しました。544年に的臣·吉備臣·河內直は,伽耶側にたっての新羅との外交に參加しました。日本府の全ての活動は,外交に關するものだけでした。倭王が日本府らを伽耶に派遣したのは,政治的强制や干涉ではなく,外交のためでした。日本府らは,いつも伽耶諸國と步調を合わせていたが,倭王や百濟王の命令によって活動した個所は全くありません。

二つ,日本府は前半では,親百濟·反新羅の外交を展開しますが,後半には逆に,親新羅·反百濟の外交に回りました。これらの變化は,日本府の活動が,倭や百濟の利害關係を代辯するものでなく,伽耶諸國の利害關係を反映していたのを見せてくれます。532年を前後に,金海の金官國を始めとする,東南部の伽耶諸國が,新羅に倂合されると,安羅國や加羅國などは,百濟との外交を通じて,金官國の復興を模索しながら,新羅の進出を防ごうとしました。しかし,百濟はこれをきっかけに,南部伽耶へ郡令城主を駐屯させながら,伽耶諸國に對する干涉の動きを露骨化しました。これで伽耶諸國は,親新羅外交を通じて,百濟の軍事的干涉を排除しようとしました。伽耶諸國は,新羅の進出には,親百濟外交を,百濟の侵入には,新羅との親善外交を通じて對處していたのでした。このような伽耶諸國の努力と,みことに合致するのが,日本府らの外交活動でした。日本府の活動は,倭や百濟のためでなく,伽耶諸國の利害關係を代辯してました。

三つ,この時期の日本府は,派遣主體だったはずの,倭王からかなり離れています。百濟の聖明王は倭王に,反百濟·親新羅の外交政策を推し進めていた,河內直らの召喚を何度も要請しましたが,倭王は何の實力行使もできませんでした。すでに,日本府らは,倭王の統制から離れていたのでした。さらに,倭王は百濟や新羅に,何度も伽耶の問題に對する自らの立場を傳えますが,日本府を介在してのことではありませんでした。むしろ,百濟や新羅へ他の使を送り,日本府らは百濟や新羅を通じて,その意向を確かめるだけでした。派遣の際とは異なって,倭王は日本府らを統制できなかったし,その關係も曖昧となりました。

四つ,それでしたら,なぜ倭から任那や安羅に派遣された,吉備臣や河內直の日本府らが,倭王を離れて,伽耶王らと親しくなったのでしょうか? 元來彼らは,伽耶出身でした。しかも,外交使節にしては珍しく,かなり長い間に伽耶で在留しました。『日本書紀』によると,河內直は,伽耶から日本の河內へ移住した,伽耶系の渡來人集團の一員でした。吉備臣も同じく,伽耶系の渡來人でした。結局,伽耶から古代日本の河內や吉備へ移住し,伽耶の言語や文化に馴染んでいた長所を活かし,再び伽耶へ遣されたことでした。また,彼らの伽耶での長期滯在は,倭王を離れ,伽耶王と親密になったことと考えれます。五つ,これは544年に,百濟の聖明王が,日本府らを非難するなかでも確認されます。聖明王は,"的臣·吉備臣·河內直らは,伽耶人の阿賢移那斯と佐魯麻都の指示に從うのみで,利那斯と麻都は,賤しき身分であるにも關わらず,日本府らを左右している"と,强く非難しました。利那斯と麻都が,西部伽耶の王の末裔であることは,『日本書紀』でも確認されます。なお,利那斯と麻都や日本府らは,安羅國に在留し,安羅國の統制に從ってました。日本府は,倭王でもなく,百濟王でもない,伽耶王によって動かされていたのでした。六つ,なぜ,安羅國王は,これらを保護していたのでしょうか?

日本府らを伽耶側に附けて置き,百濟や新羅には,伽耶諸國の背後に,倭の勢力があるように見せかけようとしたのです。なお,安羅國王は,日本府らを操り,百濟や新羅との外交を,より有利に展開させ,新羅や百濟の侵略を防ごうとしたのでした。伽耶は,百濟と新羅の侵略に對する防禦策の一つとして,日本府すなわち倭の使臣らを活用したのでした。